学部紹介

    教員紹介

    姉川 雄大

    周縁の人々は「ヨーロッパ近代」をどう生きたのか

    姉川 雄大 (あねがわ・ゆうだい)
    千葉県生まれ。千葉大学大学院修了。博士(文学)。大学特任教員・非常勤講師等を経て2022年より長崎大学。論文「戦間期ハンガリーにおける国民化政策の反自由主義化 : 学校外体育義務制度(レヴェンテ制)の失敗と転換」(『歴史学研究』953号、2017年)、共著書『問いからはじめる教育史』(有斐閣、2020年)、『せめぎあう中東欧・ロシアの歴史認識問題:ナチズムと社会主義の過去をめぐる葛藤』(ミネルヴァ書房、2017年)、『教育支援と排除の比較社会史:「生存」をめぐる家族・福祉・労働』(昭和堂、2016年)等。

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    Q.ご自身の研究を紹介してください。
    近現代東欧社会の視点からヨーロッパ近代の諸問題、特にナショナリズムや「近代市民社会」の展開にかかわる諸問題を考えています。具体的には、19~20世紀ハンガリーの教育や福祉の現場を事例に、人々をあるべき「国民」像や家族・性道徳に沿わせようとする政策・運動の担い手と、その対象とされる人々(特に、うまく理想的な人間像に合致できない、統治側から見たら逸脱した「だめな人」たち)とが接する場面に着目して研究してきました。このような政策や運動それ自体は、結果として失敗したようにみえることがあります。しかし、それ自体が失敗した場合でも(あるいはむしろ失敗によって)、人々を「健全な(安全で有用な)市民の共同体」にふさわしいかどうか選別したり、ある人々をより価値が低い者ということにして序列化したりする政治の一部をなすようになってきたのです。
     このような政治をもたらしているのは人種主義的で資本主義的な構造だということができます。この構造の全体像や歴史的展開を明らかにすることは、個々人が直面する矛盾と「世界史」規模での不均等さの関係を考えるために、どうしても必要なことのように思えます。しかし同時に、タイミングや場所や立場によって様々に変わる姿を断片的に見ることしかできないようにも思えます。例えば、20世紀東欧の片隅で、いくつもの差別や排除が交差する地点に身を置いている人からは、これはどう見えるのか。そういったところから、少しずつ広げて考えていきたいと思っています。

    【PHOTO】ハンガリーの博物館「テロルの館」(2002年)のエントランスホール。「“二つの全体主義”に占領され、その犠牲となってきたハンガリー」という公式の歴史観をよく物語っている。

    Q.どのような授業になりますか。
    すでに基礎論という授業で、西洋近現代史についての本や論文を正確に読むために必要な、基本的な概念・知識・用語を学んでいるので、この授業ではさらに、自分で課題を見つけて探求することができるようになることを目指します。そのため、基礎論でせっかく整理して分かったはずのことが、この授業で再び分からなくなります。「西洋近代」はどのように「現代史」における問題や矛盾を準備したか、という大枠のテーマはあるのですが、実際には授業の内容が行ったり来たりしてしまうからです。
     具体的には、①ヨーロッパのほか、東欧などの周縁部やヨーロッパ外の植民地、あるいはそれぞれの都市・農村といった複数の場所の、それぞれの様々な立場の視点のあいだを、行ったり来たりします。②また、具体的な歴史的事象と、それが置かれた文脈や背景にある構造のあいだを、③ということは、史実とその解釈を、つまり過去とそれについて考える現在とのあいだを、行ったり来たりします。そうすることによって、ヨーロッパ近現代を考えるための多くの観点や方法について、その限界や偏りを含めて批判的に学び、使いこなせるようになるはずです。
     「分からなくなる」と言いましたが、すぐには結論を出さないという思考法を学ぶことができれば、そのほうがいいはずです。例えば授業では、ある人々が切実で真摯に希求した「自由」や「民主主義」が、他の人々を抑圧しているように見える事例を扱います。それをみてすぐに良いか悪いかなどの結論を出すべきでしょうか。結論を保留し、考えるのをやめないという態度も、できるだけ身に着けていきましょう。

    【PHOTO】ブダペシュトにハンガリー政府が設置したドイツ占領記念碑(2014年)と、その記念碑が「想起」させようとしている「歴史」を批判する人々が設置した対抗的モニュメント。

    Q.メッセージをお願いします。
    西洋近現代史研究には様々な目的によるものがありうるのですが、ここ多文化社会学部では、他の人文社会科学と同様の、現状を批判的に考えるための方法の一つとしての歴史学に取り組んでほしいと思います。ただし、かなり遠回りをする思考の仕方です。私たち自身や、それをとりまく社会や世界の「現在」を相対化して考えるために、それがいつ、どうやってできてきたかを、わざわざ過去を経由して考えようとするからです。
     実は、遠回りをしないやり方もあります。SNSの発達により、どこかで聞いた現状批判風の言い回しを使いこなして分かった気になったり、評価しあったりするのが西洋近現代史研究の主流になってきました。しかしこのやり方はおすすめできません。それっぽい言い回しを無批判に受容して無自覚に再利用するわけですから、批判の対極にあるやり方です。それに、だいたい発信力のある人がやるので、「批判風のことば」が「批判のことば」の居場所を侵食してしまい、その結果、矛盾や問題が隠されたりすり替えられたりするようになってしまいます。
     やはり私たちは、まわり道をすることにしましょう。ちょっとした遠回りから始めてください。本を手に取ったら、著者名とタイトルだけみて満足せずに、中身を読んでみる。あるいはせめて、読んだ気にならない。それだけでも違います。そんなことかって?そんなことからでいいのです。そのうちに、だんだん、いろんな遠回りの道が見えて来るのです。

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